世界史を学ぶ人へお勧めの本 その2

こんにちは。

ようやく、梅雨らしくなってきましたね。ある程度年齢を重ねると、梅雨の良さがわかるようになるのが不思議です。おそらく、この感覚は日本人独特な物なのでしょう。やはり、異文化交流とは難しいものです。

そこで、今回皆さんにお勧めしたいのは、異文化交流の難しさについて学べる、この一冊です(相変わらずの強引な導入ですが・・)

チャップリンの影 ~日本人秘書 高野虎市~

チャップリンの影 ~日本人秘書 高野虎市~


この本は、チャップリンの日本人秘書として知られている高野さんを通じて、戦前の日米の社会の様子、とりわけアメリカのエンターテイメント業界の成長過程や、戦争中、アメリカで如何に人種差別が行われていたか等が学べます。

アメリカの政治体制等ではなく、社会の動きを学ぶ事は、現代アメリカを理解するうえでも役立ちます。

歴史を学ぶ人は、政治だけではなく、経済や社会の動き等幅広い視点でその国を判断する事が必要ですが、それを教えてくれるのがこの本なのです。

世界史を学ぶ人へお勧めの本 その1

こんにちは。

仕事柄、本をけっこう読みます。その本の中で、世界史を学ぶ人達に是非読んでいただきたい本を、これから紹介していこうかなと思います。

今日のお勧めの本はこちらです。

 

 

 

「初回から世界史と関係無いやん!」
というツッコミを受けそうですが(笑)
本書を読む事で、当時の日本が置かれた国際情勢の一端がわかるのです。

著者の佐々淳行さんは、1990年代、日テレのズームイン朝で解説をされていたので、御存知の方も多いと思います。
浅間山荘事件など、警備一課長として危機管理に尽力された方ですが、その他にも外事課長として日本国内のスパイ摘発等、日本の赤化阻止にも尽力されてきました。

佐々さんの著書は数多く出版されていますが、本書は1970年代の国内情勢を通じて、危機管理と赤化阻止の2つの観点を学ぶ事が出来、また、日本が何故その様な状況に置かれたかを考えると、当時の国際情勢も学べるお勧めの本です。ちなみに、三重の風土についても学べるところが、私のお気に入りです(笑)

今後もお勧めの本を紹介していく予定なので、お付き合いいただければ幸いです。

歴史物語~産業革命とイスラム世界その3~

 こんにちは。 

 前回の記事では19世紀にオスマン帝国が弱体化していく様子を御紹介しました。今回はその続きとなりますが、結論から言えば、イギリスがイスラム世界から大いに恨みを買うというお話です。もうおわかりかと思いますが、それが現在のイスラムテロにつながる訳です。

 それでは早速、弱体化したオスマン帝国を、どのようにイギリスが侵略していくのか見ていきましょう。(ついに今回は導入無し!)

 

 1838年、イギリスとオスマン帝国はトルコ=イギリス通商条約を締結しました。この条約はオスマン帝国関税自主権が認められていない、不平等条約でした。オスマン帝国としては、不利な条件でも良いから、西欧諸国との交流を活発化させる事で近代化を図ろうとしたのでしょう。相次ぐ戦争の敗北やチューリップ時代を経験した事が、この条約の締結を後押ししたのです。しかし、結果から見ればこの条約は大失敗でした。

 思い出してください。当時のイギリスは産業革命により、生産能力が飛躍的に向上し、大量生産が実現した時代です。イギリス製品は大量生産されている分、非常に安価なのです。そんな安価なイギリス製品に対し、オスマン帝国は関税をかける事が出来ないのです。どうなるか。

 当然ですが、オスマン帝国の国産品はイギリス製品に太刀打ちできず、売れなくなってしまいます。結果、大量の失業者を出してしまいました。インドの二の舞になってしまったのです。こうして失業者の大量発生により経済が大打撃を受けたオスマン帝国でしたが、イギリスの経済的侵略は続きます。

 1853年、ロシアとオスマン帝国の間でクリミア戦争が勃発しました。ナイティンゲールが活躍した事でも有名な戦争ですが、そもそもの発端は、ロシアが地中海進出の為に、トルコが支配しているボスフォラス海峡等を奪おうとした事でした。これにイギリスが怒ります。

 当時、イギリスはエジプトを中継地点としてインドと貿易をしていました。つまり、地中海はイギリスにとってエジプトへの最短ルートとして極めて重要な場所なのです。そこを、ロシアに奪われたらたまったものではない。イギリスはフランスと共にオスマン帝国を援助します。結果、オスマン帝国は戦争には勝ちましたが、イギリスに援助の見返りに貿易の拡大を認めさせられ、さらにはイギリス資本の銀行まで設立させられてしまいました。もはや、オスマン帝国がイギリスに経済的に侵略されている事は、誰の目にも明らかです。その他にも、イギリスの指示で鉄道建設等を実施した結果、1875年、ついにオスマン帝国は財政が破綻してしまいました。そのため、イギリスから融資を受けざるを得なくなり、イギリスの経済的支配下に置かれました。

 いかがでしょうか。こうしてオスマン帝国は、市場としての価値が低下しつつあった西欧諸国に代わり、イギリスの市場にされてしまったのです。当然、オスマン帝国の人々、とりわけ、失業等の憂き目に遭った庶民の間では、イギリスに対する憎しみが高まっていきます。

 19世紀のイギリスは他にも、ロシアの南下政策からインドを防衛するため、イランやアフガニスタンを支配下に置く等、イスラム世界へどんどん進出していきました。当然、これらの行為はイスラム教徒の人々の怒りに火を付けます。そしてそれは、パン=イスラム主義という形で表面化しました。

 パン=イスラム主義とは、イランの思想家アフガーニーと、その弟子であるムハンマド=アブドゥフが広めた思想で、イスラム教徒は国や民族を超えて一致団結し、外国の侵略に立ち向かうべきという考え方です。もうおわかりかと思いますが、ここでいう「外国」というのが、イギリスを指すのです。

 アフガーニー達の活躍により、19世紀後半になるとイスラム世界では、イギリスに反発する人々が国を越えて結束していきます。こうして、それまでは分裂していたイスラム世界が、反イギリスの旗印の下、結束し始めたのです。もちろん、イギリス等西欧諸国はこの動きを見逃さず、ことある毎に弾圧しようとしましたが、それは人々の反イギリス感情を増幅させただけで、逆効果でした。

 この様に、19世紀はイスラム世界が反西欧諸国、とりわけ反イギリスで結束した時代となってしまったのです。そしてそれが、テロが頻発する現在の世界へとつながっていくわけです。

 

 いかがでしょうか。今回で、いったん歴史物語シリーズは終わりにしますが、16世紀の大航海時代から19世紀まで、そして現在までがつながっているという事が御理解いただけたのではないでしょうか。少しでも、「歴史とは現在まで続く物語である」という事が実感いただければ幸いです。

歴史物語~産業革命とイスラム世界その2~

 こんにちは。

 暑い日が続きますね。こう暑いと、弱ってしまいます。という訳で、今回はオスマン帝国が弱体化するというお話です。毎回、強引な導入でお恥ずかしい・・・

 

 前回の記事では

産業革命イスラム世界に大打撃を与え、ヨーロッパ社会への恨みが増幅した。

 という観点から、産業革命を始めたイギリスにより、インドが経済的に支配されていく過程を御紹介しました。

 今回はインドに続き、オスマン帝国がイギリスに経済的に侵略されていく様子を御紹介したいと思います。

 ですが、いきなり19世紀のオスマン帝国を紹介するよりも、それ以前のオスマン帝国について知っていた方がわかりやすいと思うので、18世紀のオスマン帝国の状況から振り返っておきましょう。

 18世紀前半、オスマン帝国では上流階級を中心に、フランス等西欧諸国の文化が流行し、多くの文芸作品や医学書等も輸入されました。その中でも、とりわけ人気を博したのがチューリップです。上流階級の人々がチューリップを熱烈に愛し、投機の対象にまでなった事から、この時代をチューリップ時代と呼びます。この様に、オスマン帝国にはヨーロッパの文化に好意的な感情が形成されていていました。しかし、これはあくまで上流階級に限っての事です。庶民の間では、依然として西欧諸国への印象は悪く、チューリップ時代も民衆の暴動が頻発し終焉に向かっています。つまり、この時代のオスマン帝国における西欧諸国への印象は、好意的な印象を持ち受け入れる意思がある上流階級と、悪印象を持ち拒絶する庶民との間で二分されていたのです。そして、上流階級に限定されていたとはいえ、西欧諸国に好印象を持つ人々が増えていた事が、オスマン帝国にとっては悲劇でした。

 19世紀になると、オスマン帝国の弱体化は誰の目にも明らかでした。教科書では、この時期のオスマン帝国を「瀕死の病人」と表現しているほどです。トルコ人の支配に反発しアラビア半島独立運動が発生。現在のサウジアラビア王国であるワッハーブ王国が成立しました。さらに、イスラム教支配に反発しギリシアが独立を宣言。1821年にギリシア独立戦争が始まりました。この戦争は、バルカン半島勢力を拡大したいロシアや英仏も介入し、国際戦争に発展します。そして、オスマン帝国は敗北しギリシアの独立が認められたのです。しかし、オスマン帝国にとっての悲劇は終わりません。エジプトとの間で戦争が勃発したのです。

 エジプトは16世紀にオスマン帝国に征服されました。その後、1798年にナポレオンがエジプト遠征を行います。当然、オスマン帝国はそれを阻止すべく軍隊をエジプトに派遣しました。その派遣された軍の中に、ムハンマド=アリーという将校がいました。ナポレオン軍の近代的兵器に感銘を受けた彼は、ナポレオン軍撤退後、オスマン帝国の許可を得てエジプト総督に就任し、西洋式軍隊の創設や官営工場の建設等、エジプトの近代化に努めました。こうしてエジプト軍が強化されていく最中、起きたのがギリシア独立戦争だったのです。当然、オスマン帝国はエジプト軍にも出兵を要求しました。当時、オスマン帝国の軍隊は近代化が進んでおらず、エジプト軍の方が精強でした。しかし、世界一の大国になりつつあるイギリスに加え、フランスやロシアの軍隊が支援するギリシアに勝てる訳もなく、オスマン帝国とエジプトの軍隊は敗北。前述した通り、ギリシアの独立が認められました。この戦いでオスマン帝国の弱体化に気がついたムハンマド=アリーは、オスマン帝国からの独立を決意します。そして、1831年、エジプト‐トルコ戦争が勃発したのです。この戦争でエジプトが勝利し、オスマン帝国からの独立が実現しました。

 こうして、オスマン帝国アラビア半島ギリシア、エジプトを失い、領土が激減。近代化の必要性を痛感しました。そこに、イギリスが摩の手を差し伸べてくるのです。

 

 いかがでしょうか。19世紀のオスマン帝国が如何に弱体化したかが御理解いただけたかと思います。次回は、そこにイギリスが如何に介入してくるかを書いていきたいと思います。

歴史物語~産業革命とイスラム世界~

 こんにちは。

 徐々に暑くなってきましたね。ついに我が家も、暑さに屈してクーラーをつけるようになってしまいました。まだ5月だというのに、春は何処に行ってしまったのでしょうか。機械に依存するようで情けないのですが、今回はその機械に関するお話です。(毎回強引な導入なのも情けないですね(苦笑))

 さて、前回までは

大航海時代イスラム過激派誕生の一因である。

 という観点で御説明してきましたが、今回はその続きです。前回の記事の最後で触れたように

産業革命イスラム世界に大打撃を与え、ヨーロッパ社会への恨みが増幅した。

 という観点で書いていこうと思います。

 なお、先日からヨーロッパ諸国がイスラム圏の人々に対して犯した罪について書いていますが、筆者はテロを肯定するつもりはありません。過去にいかなる事情があったとしても、暴力に訴える事は決して許されない事です。

 話を戻しましょう。

 産業革命は18世紀後半、イギリスで発生しました。結論から言います。これにより、イギリスは全世界に絶大な影響力を持つ世界一の大国へと成長したのです。そしてそれは、イスラム圏に暮らす人々にとって、悲劇の始まりでした。

 産業革命とは一言で言えば、機械の発明による大量生産の実現、です。18世紀後半、イギリスでは衣類等のインド産の綿織物が大流行していました。しかし、これに腹を立てた国内の商人達が、政府に働きかけてインドからの綿織物輸入を禁止させてしまったのです。しかし、綿織物を求める人々は諦めませんでした。輸入品が駄目なら、自分達で作ってしまおう。そう考えたのです。

 彼らは綿織物を大量生産するために、紡績機や機織り機を作りましたが、その過程で、蒸気機関が誕生します。実はこの蒸気機関の発明こそが、ヨーロッパがアジアなど他の地域に対し、優位に立つ事が出来た理由なのです。

 例えば、蒸気船や蒸気機関車の発明により、ヨーロッパ諸国はそれまでよりもはるかに多くの軍隊を、それまでよりも遥かに素早く移動させる事が可能になります。そしてその侵略の矛先は、アジアやアフリカに向けられました。いわゆる、帝国主義時代ですね。ですが、産業革命の恐ろしさは、こうした軍事的侵略だけではありません。相手国を内部から経済的に弱体化させ従属させるといった、経済的侵略の側面もあるのです。それを、今からインドとイギリスを例にとって説明したいと思います。

 蒸気機関の発明により大量生産が実現したイギリスは、国産の綿織物をインドを含め各国に輸出するようになります。何故でしょう。それは、綿織物の原材料である綿花を手に入れるためでした。インド産の綿織物というのは、職人の手作りです。当然品質は高いのですが、その代わり単価も高くなってしまいます。それに対し、イギリス産の綿織物は大量生産をしていますから、当然単価も安い。その結果、インドでもイギリス産綿織物は大流行し、インド産綿織物は売れなくなってしまいました。

 それまでインドは、綿織物を各国に輸出していましたが、安価なイギリス産綿織物の登場により、インド産綿織物は売れなくなってしまったのです。インド人の職人の多くが失業し、餓死者も大量発生したと言われています。

 こうして、綿織物の輸出という主要産業が崩壊してしまったインド経済は、大打撃を受けました。そこに、イギリスが綿花貿易を提案してきます。主要産業が崩壊したインドに、イギリスの提案を断る選択肢はありませんでした。その結果、インドは綿花の栽培が主要産業となり、イギリスはインドから綿花を輸入し、それを加工して綿織物を作り、それを各国に輸出するという貿易体制を確立します。当然ですが、この貿易体制によって利益をもたらされたのはイギリスだけでした。

 イギリスは利益を上げるため、綿花の値段をかなり低く設定しました。イギリス産綿織物が安価だった理由は、機械による大量生産だけではなく、原材料の安さにもあったのです。インドの職人達からしてみれば、働けど働けど利益は増えず、たまったもんではありません。もちろん、インド経済は回復せず、イギリスによって経済的に支配されてしまったのです。当時のインドの惨状を表す有名な言葉があります。

 「木綿織布工達の骨はインドの平原を白くしている」

インド人の間に多くの餓死者が発生した事を表すこの言葉からも、当時のインドの悲惨な状況がわかると思います。インドがこの様な状況に置かれた最大の原因は、なんといってもイギリスです。当然ですが、インド社会でイギリスに対する怒りや不満が高まっていくわけです。

 こうして、インドがイギリスの経済的支配下に入ったことで、イギリス経済は急成長を遂げました。そしてその矛先は、他のヨーロッパ諸国にも向けられます。

 19世紀当時、イギリスと他のヨーロッパ諸国との国力の差は歴然としていました。その結果、他のヨーロッパ諸国もイギリスによる市場化という、インドと同様の被害に遭います。安いイギリス製品が大量に流入した事で自国の製品が売れなくなり、多くの失業者を出したヨーロッパ諸国は、イギリスとの貿易に依存する経済体制となってしまいました。

 こうして、イギリスは各国を自国の市場とする事に成功したのですが、19世紀後半になると、各国でも産業革命が進行し、イギリスとの貿易に依存する体制から徐々に脱却していきます。その結果、ヨーロッパ諸国はイギリスにとって、魅力のある市場とは言い辛くなってしまったのです。

 しかし、イギリスは抜け目がありません。他のヨーロッパ諸国が産業革命を始め、自国の優位が揺らぐ事を予測していたイギリスは、ヨーロッパ諸国を市場にするのと同時に、1830年代からはヨーロッパ諸国に代わる新たな市場を求めるようになりました。もうなんとなく想像がつきますね。そうです。オスマン帝国が新たな市場として狙われたのです。


だいぶ長くなってしまったので、今回はここまでにしようと思います。

次回は、19世紀にオスマン帝国が、ヨーロッパ諸国に侵略されていく様子を、御紹介します。

歴史物語~大航海時代とイスラム世界~その2

 こんにちは。

 ようやく、暑くなってきましたね。私が子供の時に比べると、より暑くなった気がします。しかし、この仕事をしている限り、夏は夏期講習で忙しく、海に行く事など夢のまた夢・・・

 たまには、海で羽を伸ばしたいもんです。もっとも、海が幸せを運んでくるとは限りません。オスマン帝国なんて、大西洋のおかげで酷い目にあいます。そう、強引ですが、今回はオスマン帝国に関するお話です。

前回

 

大航海時代イスラム過激派誕生の一因である。

という観点から、イスラム世界の東部に位置するインドがヨーロッパ諸国に蹂躙される歴史を御紹介しました。今回は、東部のインドに対し、西部に位置するオスマン帝国はどの様な状況だったのか。これを御紹介したいと思いますが、かなり長くなってしまいます。というのも、オスマン帝国は13世紀末に建国されますが、第一次世界大戦後に滅亡します。つまり、600年以上も続く長期政権で、その分、ヨーロッパの侵略にさらされる事も多いのです。なので、オスマン帝国が如何にヨーロッパに侵略されていくかは、何回かに分けて御紹介しようと思います。

 

 さて、では16世紀、大航海時代オスマン帝国は、ヨーロッパ諸国にどの様に侵略されたのか。実は、結論から言えば侵略される事もなく、良くも悪くも安定していました。インドとは正反対です。何故か。はっきり言えば、ヨーロッパ諸国にとってインドほどの価値が無かったからです。

 17世紀、オスマン帝国は再びウィーンを包囲しますが、失敗し撤退に追い込まれます。その結果、オーストリアとの講和条約ハンガリーを割譲させられ、ヨーロッパ領の大半を失ってしまいました。これは、単に領土を失ってしまったという問題ではありません。 

 16世紀の大航海時代まで、オスマン帝国は地中海を使った貿易で、ヨーロッパ諸国と交流がありました。その後、ヨーロッパ諸国が新大陸との貿易や、アフリカやインドを経由した貿易に重点を置いたことで、貿易の舞台が大西洋に移り地中海の重要性が失われた後も、ハンガリー等のヨーロッパ領を使い、陸路ではオスマン帝国とヨーロッパ諸国の交流があったわけです。しかし、17世紀のウィーン包囲失敗で、ハンガリーを失ってしまいました。するとどうでしょう。もはや、陸路でも海路でも、オスマン帝国はヨーロッパ諸国との交流が激減してしまったのです。

 一見すると、ヨーロッパ諸国との交流が途絶えるというのは良い事のように思えますよね。もうキリスト教徒に侵略される事も無い。イスラム教徒による平和な国家をつくる事が出来る。ですが、思い出してください。当時、大航海時代によってヨーロッパ諸国が、商工業が発達し各国共に飛躍的な発展を遂げていた時代です。

 そんな時代に、ただでさえ、地中海の貿易の舞台としての役割が減少し、国際貿易のネットワークから外れてしまっていたオスマン帝国が、ハンガリー等のヨーロッパ領を失いヨーロッパ諸国との交流が途絶えるとどうなるか。もうわかりますよね。近代化に取り残されてしまったわけです。

 17世紀以降、ヨーロッパはいわゆる絶対王政の時代を迎え、国王を中心とした独裁体制が出来上がりました。これにより国内が安定したのですが、一つ問題が起こります。絶対王政は国王が多くの官僚を通じて国内を支配するシステムなのですが、その官僚の人件費が、各国の財政を圧迫してしまうのです。そこで、各国は絶対王政を維持するため、領土を拡大し財源を確保しようとします。そうすると、当然ですが各国間で領土を巡る争いが起こり、各国は、国王を中心に他国に対抗するため近代化を進める事になりました。日本でいうところの戦国時代をイメージして下さい。各国は領土争いを繰り返す等、互いに切磋琢磨していました。その結果、ヨーロッパ全体で近代化が進んでいくのです。

 オスマン帝国はその近代化の流れに、完全に取り残されてしまいました。その結果、オスマン帝国自体は弱体化したわけではありませんが、ヨーロッパ諸国に対し相対的に弱体化してしまうのです。この、オスマン帝国の相対的弱体化の流れに、拍車をかける出来事が起こります。産業革命です。

 実は産業革命こそが、イスラム世界の人々に大きな被害を与え、ヨーロッパ諸国に対する怒りを大幅に増幅させる結果となるのです。そしてそれが、イスラム過激派誕生へとつながっていきます。

 産業革命については、次回、御紹介しようと思います。

歴史物語~大航海時代とイスラム世界~

こんにちは。

五月も半ばに差し掛かりつつありますね。先日、黄砂の影響か鼻をやられてしまい、せっかくの連休が台無しになってしまいました。仕方のない事ですが、やはり日本は大陸からの影響を受けているんだなと実感しました。

もっとも、西からの影響を受けるのは、我々だけではありません。

以前、

 

大航海時代イスラム過激派誕生の一因である。

 

と書きましたが、今回はそれについて、もう少し書いてみようかなと。少々長くなりますので分割して書きますが、結論から言えば

 

大航海時代イスラム圏の人々のヨーロッパ世界への憎悪を増幅させた

 

という事になります。

 いやいや、なんで新大陸発見とイスラム世界が関係あるんだ?と思うかもしれませんが、実は関係しているのです。

 結論から言えば、大航海時代のおかげで、インドや、現在のトルコの前身となったオスマン帝国が打撃を受けました。そしてそれが、ヨーロッパ世界への怒りを増幅させるわけです。では何故、新大陸発見に始まる大航海時代によって、インドやオスマン帝国が打撃を受けたのか。

 

 16世紀、大航海時代を迎えたヨーロッパは、アジア貿易や新大陸との貿易により商業が飛躍的に発展します。工業化も進み、社会全体で近代化が進んでいくわけです。それに対し、イスラム世界はどうだったのか。

 イスラム世界の東部、インドに位置するムガル帝国は、人口の大半を占めるヒンドゥー教徒を、イスラム教徒が支配していました。ヒンドゥー教徒の反乱を恐れたムガル皇帝は、税を免除する等徹底的な融和政策を採っていたため、両者の関係は良好でした。しかし、17世紀に入るとその関係が一変します。税収の減少やタージマハル建立で財政難となったムガル帝国は、ヒンドゥー教徒に対し課税をする事を宣言し、さらに、イスラム教への改宗を強制しました。これに、ヒンドゥー教徒が反発し、各地に独立国家を形成してムガル帝国に対抗したのです。こうしてインドは、ムガル帝国とその他のヒンドゥー教国家が対立する、分裂状態に陥ってしまったのです。ヨーロッパ諸国にとって、これは願ってもないチャンスでした。

 大航海時代のそもそもの目的は、東南アジアに進出し香辛料貿易の主導権を握る事でした。そんなヨーロッパ諸国にとってインドは、東南アジアへの中継地点としても重要だし、なんといってもその広大な領土と人口は、植民地としてうってつけです。そのインドが、イスラム教とヒンドゥー教の宗教対立により弱体化の一途を辿っている。ヨーロッパ諸国がこの機会を見逃すはずがありません。ポルトガルがインドに進出し、東南アジアへの中継地点として植民地を建設しました。 

 その後、弱体化したポルトガルに代わり、イギリスとフランスがインドの植民地化を目指し進出しました。そして度重なる戦争を経て、18世紀にはイギリスがフランスを駆逐し、インドを支配下に置きます。言い方を変えれば、キリスト教徒がイスラム教徒やヒンドゥー教徒を支配する国が誕生したわけです。

 その後のインドがどうなったかについては、後ほどご説明しますが、ヨーロッパ諸国にとって極めて価値が高い土地であったという事、イスラム教徒がキリスト教徒に支配される国家体制であったという事は、覚えておいてください。

 こうしてイスラム世界の東部に位置するインドが、大航海時代を契機にヨーロッパ諸国に蹂躙される一方、西部に位置するオスマン帝国はどの様な状況だったのか。これについては、次回以降書きたいと思います。

 ただ、今回の記事を読んでいただいただけでも、大航海時代以降、インドが悲惨な目にあった事がお分かり頂けたと思います。当然、インドではヨーロッパ世界への憎悪が高まったでしょう。これらの憎悪が、現代まで増幅された結果が、イスラム過激派の誕生につながるのです。以前も書きましたが

 「歴史とは現在につながる物語である」

という事を実感していただければ幸いです。