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歴史物語~産業革命とイスラム世界~

 こんにちは。

 徐々に暑くなってきましたね。ついに我が家も、暑さに屈してクーラーをつけるようになってしまいました。まだ5月だというのに、春は何処に行ってしまったのでしょうか。機械に依存するようで情けないのですが、今回はその機械に関するお話です。(毎回強引な導入なのも情けないですね(苦笑))

 さて、前回までは

大航海時代イスラム過激派誕生の一因である。

 という観点で御説明してきましたが、今回はその続きです。前回の記事の最後で触れたように

産業革命イスラム世界に大打撃を与え、ヨーロッパ社会への恨みが増幅した。

 という観点で書いていこうと思います。

 なお、先日からヨーロッパ諸国がイスラム圏の人々に対して犯した罪について書いていますが、筆者はテロを肯定するつもりはありません。過去にいかなる事情があったとしても、暴力に訴える事は決して許されない事です。

 話を戻しましょう。

 産業革命は18世紀後半、イギリスで発生しました。結論から言います。これにより、イギリスは全世界に絶大な影響力を持つ世界一の大国へと成長したのです。そしてそれは、イスラム圏に暮らす人々にとって、悲劇の始まりでした。

 産業革命とは一言で言えば、機械の発明による大量生産の実現、です。18世紀後半、イギリスでは衣類等のインド産の綿織物が大流行していました。しかし、これに腹を立てた国内の商人達が、政府に働きかけてインドからの綿織物輸入を禁止させてしまったのです。しかし、綿織物を求める人々は諦めませんでした。輸入品が駄目なら、自分達で作ってしまおう。そう考えたのです。

 彼らは綿織物を大量生産するために、紡績機や機織り機を作りましたが、その過程で、蒸気機関が誕生します。実はこの蒸気機関の発明こそが、ヨーロッパがアジアなど他の地域に対し、優位に立つ事が出来た理由なのです。

 例えば、蒸気船や蒸気機関車の発明により、ヨーロッパ諸国はそれまでよりもはるかに多くの軍隊を、それまでよりも遥かに素早く移動させる事が可能になります。そしてその侵略の矛先は、アジアやアフリカに向けられました。いわゆる、帝国主義時代ですね。ですが、産業革命の恐ろしさは、こうした軍事的侵略だけではありません。相手国を内部から経済的に弱体化させ従属させるといった、経済的侵略の側面もあるのです。それを、今からインドとイギリスを例にとって説明したいと思います。

 蒸気機関の発明により大量生産が実現したイギリスは、国産の綿織物をインドを含め各国に輸出するようになります。何故でしょう。それは、綿織物の原材料である綿花を手に入れるためでした。インド産の綿織物というのは、職人の手作りです。当然品質は高いのですが、その代わり単価も高くなってしまいます。それに対し、イギリス産の綿織物は大量生産をしていますから、当然単価も安い。その結果、インドでもイギリス産綿織物は大流行し、インド産綿織物は売れなくなってしまいました。

 それまでインドは、綿織物を各国に輸出していましたが、安価なイギリス産綿織物の登場により、インド産綿織物は売れなくなってしまったのです。インド人の職人の多くが失業し、餓死者も大量発生したと言われています。

 こうして、綿織物の輸出という主要産業が崩壊してしまったインド経済は、大打撃を受けました。そこに、イギリスが綿花貿易を提案してきます。主要産業が崩壊したインドに、イギリスの提案を断る選択肢はありませんでした。その結果、インドは綿花の栽培が主要産業となり、イギリスはインドから綿花を輸入し、それを加工して綿織物を作り、それを各国に輸出するという貿易体制を確立します。当然ですが、この貿易体制によって利益をもたらされたのはイギリスだけでした。

 イギリスは利益を上げるため、綿花の値段をかなり低く設定しました。イギリス産綿織物が安価だった理由は、機械による大量生産だけではなく、原材料の安さにもあったのです。インドの職人達からしてみれば、働けど働けど利益は増えず、たまったもんではありません。もちろん、インド経済は回復せず、イギリスによって経済的に支配されてしまったのです。当時のインドの惨状を表す有名な言葉があります。

 「木綿織布工達の骨はインドの平原を白くしている」

インド人の間に多くの餓死者が発生した事を表すこの言葉からも、当時のインドの悲惨な状況がわかると思います。インドがこの様な状況に置かれた最大の原因は、なんといってもイギリスです。当然ですが、インド社会でイギリスに対する怒りや不満が高まっていくわけです。

 こうして、インドがイギリスの経済的支配下に入ったことで、イギリス経済は急成長を遂げました。そしてその矛先は、他のヨーロッパ諸国にも向けられます。

 19世紀当時、イギリスと他のヨーロッパ諸国との国力の差は歴然としていました。その結果、他のヨーロッパ諸国もイギリスによる市場化という、インドと同様の被害に遭います。安いイギリス製品が大量に流入した事で自国の製品が売れなくなり、多くの失業者を出したヨーロッパ諸国は、イギリスとの貿易に依存する経済体制となってしまいました。

 こうして、イギリスは各国を自国の市場とする事に成功したのですが、19世紀後半になると、各国でも産業革命が進行し、イギリスとの貿易に依存する体制から徐々に脱却していきます。その結果、ヨーロッパ諸国はイギリスにとって、魅力のある市場とは言い辛くなってしまったのです。

 しかし、イギリスは抜け目がありません。他のヨーロッパ諸国が産業革命を始め、自国の優位が揺らぐ事を予測していたイギリスは、ヨーロッパ諸国を市場にするのと同時に、1830年代からはヨーロッパ諸国に代わる新たな市場を求めるようになりました。もうなんとなく想像がつきますね。そうです。オスマン帝国が新たな市場として狙われたのです。


だいぶ長くなってしまったので、今回はここまでにしようと思います。

次回は、19世紀にオスマン帝国が、ヨーロッパ諸国に侵略されていく様子を、御紹介します。

歴史物語~大航海時代とイスラム世界~その2

 こんにちは。

 ようやく、暑くなってきましたね。私が子供の時に比べると、より暑くなった気がします。しかし、この仕事をしている限り、夏は夏期講習で忙しく、海に行く事など夢のまた夢・・・

 たまには、海で羽を伸ばしたいもんです。もっとも、海が幸せを運んでくるとは限りません。オスマン帝国なんて、大西洋のおかげで酷い目にあいます。そう、強引ですが、今回はオスマン帝国に関するお話です。

前回

 

大航海時代イスラム過激派誕生の一因である。

という観点から、イスラム世界の東部に位置するインドがヨーロッパ諸国に蹂躙される歴史を御紹介しました。今回は、東部のインドに対し、西部に位置するオスマン帝国はどの様な状況だったのか。これを御紹介したいと思いますが、かなり長くなってしまいます。というのも、オスマン帝国は13世紀末に建国されますが、第一次世界大戦後に滅亡します。つまり、600年以上も続く長期政権で、その分、ヨーロッパの侵略にさらされる事も多いのです。なので、オスマン帝国が如何にヨーロッパに侵略されていくかは、何回かに分けて御紹介しようと思います。

 

 さて、では16世紀、大航海時代オスマン帝国は、ヨーロッパ諸国にどの様に侵略されたのか。実は、結論から言えば侵略される事もなく、良くも悪くも安定していました。インドとは正反対です。何故か。はっきり言えば、ヨーロッパ諸国にとってインドほどの価値が無かったからです。

 17世紀、オスマン帝国は再びウィーンを包囲しますが、失敗し撤退に追い込まれます。その結果、オーストリアとの講和条約ハンガリーを割譲させられ、ヨーロッパ領の大半を失ってしまいました。これは、単に領土を失ってしまったという問題ではありません。 

 16世紀の大航海時代まで、オスマン帝国は地中海を使った貿易で、ヨーロッパ諸国と交流がありました。その後、ヨーロッパ諸国が新大陸との貿易や、アフリカやインドを経由した貿易に重点を置いたことで、貿易の舞台が大西洋に移り地中海の重要性が失われた後も、ハンガリー等のヨーロッパ領を使い、陸路ではオスマン帝国とヨーロッパ諸国の交流があったわけです。しかし、17世紀のウィーン包囲失敗で、ハンガリーを失ってしまいました。するとどうでしょう。もはや、陸路でも海路でも、オスマン帝国はヨーロッパ諸国との交流が激減してしまったのです。

 一見すると、ヨーロッパ諸国との交流が途絶えるというのは良い事のように思えますよね。もうキリスト教徒に侵略される事も無い。イスラム教徒による平和な国家をつくる事が出来る。ですが、思い出してください。当時、大航海時代によってヨーロッパ諸国が、商工業が発達し各国共に飛躍的な発展を遂げていた時代です。

 そんな時代に、ただでさえ、地中海の貿易の舞台としての役割が減少し、国際貿易のネットワークから外れてしまっていたオスマン帝国が、ハンガリー等のヨーロッパ領を失いヨーロッパ諸国との交流が途絶えるとどうなるか。もうわかりますよね。近代化に取り残されてしまったわけです。

 17世紀以降、ヨーロッパはいわゆる絶対王政の時代を迎え、国王を中心とした独裁体制が出来上がりました。これにより国内が安定したのですが、一つ問題が起こります。絶対王政は国王が多くの官僚を通じて国内を支配するシステムなのですが、その官僚の人件費が、各国の財政を圧迫してしまうのです。そこで、各国は絶対王政を維持するため、領土を拡大し財源を確保しようとします。そうすると、当然ですが各国間で領土を巡る争いが起こり、各国は、国王を中心に他国に対抗するため近代化を進める事になりました。日本でいうところの戦国時代をイメージして下さい。各国は領土争いを繰り返す等、互いに切磋琢磨していました。その結果、ヨーロッパ全体で近代化が進んでいくのです。

 オスマン帝国はその近代化の流れに、完全に取り残されてしまいました。その結果、オスマン帝国自体は弱体化したわけではありませんが、ヨーロッパ諸国に対し相対的に弱体化してしまうのです。この、オスマン帝国の相対的弱体化の流れに、拍車をかける出来事が起こります。産業革命です。

 実は産業革命こそが、イスラム世界の人々に大きな被害を与え、ヨーロッパ諸国に対する怒りを大幅に増幅させる結果となるのです。そしてそれが、イスラム過激派誕生へとつながっていきます。

 産業革命については、次回、御紹介しようと思います。

歴史物語~大航海時代とイスラム世界~

こんにちは。

五月も半ばに差し掛かりつつありますね。先日、黄砂の影響か鼻をやられてしまい、せっかくの連休が台無しになってしまいました。仕方のない事ですが、やはり日本は大陸からの影響を受けているんだなと実感しました。

もっとも、西からの影響を受けるのは、我々だけではありません。

以前、

 

大航海時代イスラム過激派誕生の一因である。

 

と書きましたが、今回はそれについて、もう少し書いてみようかなと。少々長くなりますので分割して書きますが、結論から言えば

 

大航海時代イスラム圏の人々のヨーロッパ世界への憎悪を増幅させた

 

という事になります。

 いやいや、なんで新大陸発見とイスラム世界が関係あるんだ?と思うかもしれませんが、実は関係しているのです。

 結論から言えば、大航海時代のおかげで、インドや、現在のトルコの前身となったオスマン帝国が打撃を受けました。そしてそれが、ヨーロッパ世界への怒りを増幅させるわけです。では何故、新大陸発見に始まる大航海時代によって、インドやオスマン帝国が打撃を受けたのか。

 

 16世紀、大航海時代を迎えたヨーロッパは、アジア貿易や新大陸との貿易により商業が飛躍的に発展します。工業化も進み、社会全体で近代化が進んでいくわけです。それに対し、イスラム世界はどうだったのか。

 イスラム世界の東部、インドに位置するムガル帝国は、人口の大半を占めるヒンドゥー教徒を、イスラム教徒が支配していました。ヒンドゥー教徒の反乱を恐れたムガル皇帝は、税を免除する等徹底的な融和政策を採っていたため、両者の関係は良好でした。しかし、17世紀に入るとその関係が一変します。税収の減少やタージマハル建立で財政難となったムガル帝国は、ヒンドゥー教徒に対し課税をする事を宣言し、さらに、イスラム教への改宗を強制しました。これに、ヒンドゥー教徒が反発し、各地に独立国家を形成してムガル帝国に対抗したのです。こうしてインドは、ムガル帝国とその他のヒンドゥー教国家が対立する、分裂状態に陥ってしまったのです。ヨーロッパ諸国にとって、これは願ってもないチャンスでした。

 大航海時代のそもそもの目的は、東南アジアに進出し香辛料貿易の主導権を握る事でした。そんなヨーロッパ諸国にとってインドは、東南アジアへの中継地点としても重要だし、なんといってもその広大な領土と人口は、植民地としてうってつけです。そのインドが、イスラム教とヒンドゥー教の宗教対立により弱体化の一途を辿っている。ヨーロッパ諸国がこの機会を見逃すはずがありません。ポルトガルがインドに進出し、東南アジアへの中継地点として植民地を建設しました。 

 その後、弱体化したポルトガルに代わり、イギリスとフランスがインドの植民地化を目指し進出しました。そして度重なる戦争を経て、18世紀にはイギリスがフランスを駆逐し、インドを支配下に置きます。言い方を変えれば、キリスト教徒がイスラム教徒やヒンドゥー教徒を支配する国が誕生したわけです。

 その後のインドがどうなったかについては、後ほどご説明しますが、ヨーロッパ諸国にとって極めて価値が高い土地であったという事、イスラム教徒がキリスト教徒に支配される国家体制であったという事は、覚えておいてください。

 こうしてイスラム世界の東部に位置するインドが、大航海時代を契機にヨーロッパ諸国に蹂躙される一方、西部に位置するオスマン帝国はどの様な状況だったのか。これについては、次回以降書きたいと思います。

 ただ、今回の記事を読んでいただいただけでも、大航海時代以降、インドが悲惨な目にあった事がお分かり頂けたと思います。当然、インドではヨーロッパ世界への憎悪が高まったでしょう。これらの憎悪が、現代まで増幅された結果が、イスラム過激派の誕生につながるのです。以前も書きましたが

 「歴史とは現在につながる物語である」

という事を実感していただければ幸いです。

受験生が今の時期に気をつけるべきこと

こんにちは。

もうすぐゴールデンウィークですね。そろそろ、新入社員の皆さんも会社に慣れてきた頃ではないでしょうか?

昔から五月病などと言いますね。四月から新しい環境で頑張ってきた人が、一ヶ月経ち、疲れやストレスが溜まってしまうのが原因だとか。私も身に覚えがあります。というか、あり過ぎて困ります(笑)

受験生の皆さんにとって、体調管理はとても大切です。風邪を引いたりして寝込んでしまうと、確実に他の受験生に差をつけられます。では、どの様な管理方法が良いのか。お勧めしたいのは、

ペース設定をする

という事です。
受験は一年近く続く長期戦です。言うなれば、マラソンと同じです。ペースを掴む事が必須なのです。なるべく早い時期にペースを掴めば、それだけでも他の受験生に優位に立てます。そこで大事な事は

無理をし過ぎないペースを掴む

これに尽きます。

例えば、電車に乗り遅れそうで、家から駅まで走ったとしましょう。
その時、ホームまで常に全力で走れる人がどれほどいるでしょうか。おそらく、ほとんどの人は途中で歩くか、ペースを落とすと思います。
受験勉強もそれと同じです。
毎日全力で頑張れる人はほとんどいません。
しかし、真面目な人ほど、少しでも集中力が途切れると焦ってしまい、休みを取らずに頑張ってしまいます。しかし、その様な状態で効果が上がるでしょうか。
毎週休むのは論外ですが、隔週位で丸一日何もしない日を作る。これも一つの手です。
丸一日休めば体力も回復し、集中力も高まります。また、一日何もしなかった危機感から、今まで以上に集中して勉強出来るはずです。

あくまで私見ですが、余裕がある生徒ほど偏差値が順調に伸び合格します。それは、無理なく頑張れるペースを掴んでいるからです。ただし、自分だけでペース設定をしてはいけません。何故なら、

貴方のペースが合格出来るペースであるかどうかは自分ではわからない

からです。
必ず、講師や予備校のスタッフに相談してペース設定をしましょう。

悪い慣れと良い慣れ

こんにちは。

4月も後半に入りましたね。巷では、新入社員が二日で辞めた等、もはや毎年の風物詩ともいえる新入社員に関する話が溢れています。ある意味、新入社員の非常識さに日本社会が慣れてしまったのかもしれません。

そう、「慣れ」というものは、恐ろしいものなのです。

 

受験生は4月の時点では、まだやる気もあるし予備校生活に不慣れな分、緊張感もあります。しかしこれがゴールデンウィークを過ぎたあたりから、予備校に慣れだし、次第に勉強のクオリティが落ちる生徒が多いです。

断言します。そうなったら、あっという間に転落し、這い上がる事は至難の業です。サボる事を覚えた人間は、すぐに堕落します。そして、部活を引退し夏から勉強を始める生徒に、あっという間に抜かされるでしょう。

そうならないためにも、今予備校に通っている皆さんに提案したいのが、

 

毎週毎の目標を設定する

毎月ごとに違う種類の課題を提示してもらう

 

この二点です。

週毎の目標は、必ず実現可能で具体的な目標にしましょう。例えば、「古代ローマをマスターする」なんて抽象的な目標は駄目です。何を持ってマスターと言えるのか、誰にもわかりません。自分でいくらでもゴールを変えられる目標は、目標とは言えないのです。「この問題集の古代ローマの部分を、満点を取れるまで繰り返し解こう」など、具体的な目標を設定しましょう。

月毎の課題ですが、例えば、私なら生徒に、5月は「〇〇模試を目的に頑張れ」と指示し、そしてその模試が終わったら、6月は「今月中にこの問題集のここからここまでをやるように」と指示を出します。単純ですが、要するに生徒に常に異なる刺激を与える事で、現状に慣れさせないようにするわけです。「慣れの撲滅」これが最大の目的です。

 

ここまで、「慣れる」という事の危険性を書いてきましたが、もちろん、「慣れ」には良い側面もあります。

予備校に通っている方や通った経験がある方は御存知かと思いますが、予備校の授業は80分1コマか90分1コマが多いです。それには予備校サイドの事情も多々あり、もっと短くするべきだなどと批判する声もありますが、私は極めて合理的だと思っています。何故か。

当たり前ですが、予備校に通う目的は大学に合格する事です。そのためには、本番の入試で合格点を取らねばなりません。そしてその本番の入試は、60分以上の試験時間である事がほとんどです。もしそこで、試験中に集中力が途切れたら、一生が台無しになる可能性すらあります。

しかし、普段の80分や90分の授業に慣れて、授業の間常に集中出来ている人は、絶対に60分の試験時間の間も集中力を保てるでしょう。つまり予備校の授業というのは、本番で必要な集中力を養う時間でもあるわけです。この様に、常に本番を意識する勉強が出来る人は、必ず合格します。

ちなみに、この集中力という点では、やはり運動部に所属していた生徒に一日の長があるようです。今、部活をやっていて勉強に手が回らない高3生の中には、非常に焦っている人もいるでしょう。でも、安心してください。今、貴方が部活動で養っている「集中力」こそが、受験で必要とされている事なのです。その集中力を適切な方法で発揮出来れば、受験勉強の遅れは十分取り戻せます。その方法論は、後日書きたいと思います。

 

挨拶の出来ないゆとり社員と歴史教育

こんにちは。

前回までゆとり社員について書きましたが、新年度が始まってまだ幾日もたっていないにもかかわらず、私も早速、彼らの洗礼を受けてしまいました(笑)挨拶が出来ない若者が多くとはよく言われますが、「出来ない」と「しない」はまた一つ段階が違いますからね。常識を疑ってしまいます。

 

初対面の場合、私は「予備校講師として世界史を教えています。」と自己紹介する事が多いです。そうすると、もちろん社交辞令の場合が多いのですが、相手は大体「世界史ですかあ。僕は学生時代本当に苦手でしたよ。」と返してきます。失礼、間違えました。「大体」ではないです。「確実に」です。

世界史講師となって12年、一度たりとも「僕は世界史が得意でした!」という人には会った事が無いです。「世界史が好きでした」という人には会った事がありますが、「得意でした」という人は皆無です。何故でしょう?

これは、学校の授業に問題があります。そもそも、私みたいに歴史を生業としない限り、歴史と触れ合う最大の機会は学校の授業でしょう。ところが、学校の授業では日本史にせよ世界史にせよ、

 

「覚えさせる授業」

 

がほとんどです。暗記というのは大部分の人にとって、苦痛のはずです。その苦痛を強いられる授業が、楽しいわけがない。結果、世界史に悪印象を抱くのでしょう。

では、どんな授業をすればいいのか。先ほど「覚えさせる授業が良くない」と書きましたが、そう言うと「では、今流行の考えさせる授業、即ちアクティブラーニングが良いのか?」と言われるかもしれません。違います。

現在、それまでの講義方式を否定し、アクティブラーニングに換えようとする動きがありますが、私はこれを部分否定します。

確かに、考えさせ思考力を養う事は必要です。しかし、それには基礎となる知識の土台が必要不可欠です。考えさせるだけではただの妄想に終わる可能性すらあります。なので、講義方式を否定するのではなく、講義方式に加えてアクティブラーニングを実施するという、併用方式が最上の策だと思っています。

話を戻しましょう。では、どうすれば学校の授業が面白くなるのか。それは、

 

「歴史とは現在につながる物語である」

 

という、原点に立ち返る事です。

例えば、授業で「大航海時代コロンブスが新大陸を発見したんだ」と教えても、大多数の生徒は興味を抱かないでしょう。でも「今さあ、イスラム国とか過激派がテロをしているよね。それってな、大航海時代も原因の一つなんだよ。」と切り出したらどうでしょう?おそらく生徒は「はっ!?なんで!?」となって興味を示すはずです。

この様に、「現代との関連性を指摘し、そこに至るまでの道筋を説明する」だけでも、生徒に興味を持たせる事は出来るのです。

歴史教育の現場に求められている事は、繰り返しになりますが、「歴史とは現在につながる物語である」という歴史の原点を指導する事ではないでしょうか。

 

ちなみに、大航海時代イスラム国等過激派誕生の一因というのは事実です。それについては、後日書きたいと思います。

ゆとり教育と車線変更

こんにちは。

前回の記事でジェネレーションギャップを乗り越える方法について書きましたが、今回もその続きです。

ここ数年、ゆとり教育について語られる事が多くなりました。特に、ゆとり社員との接し方等の記事やニュースが多いと思います。なお、今回の記事は、決して誰かを誹謗中傷するものではないという事をお断りしておきます。私自身はゆとり教育時代も、素晴らしい生徒に出会う事が多々ありました。あくまで、一般論として読んでください。

 

ゆとり教育というと、それが正しいかどうかは別として、どうしても悪いイメージで語られてしまいますね。その例として、私の体験談を一つご紹介したいと思います。

 

今から4年ほど前ですが、パラオに行きました。そしてシュノーケルなどを楽しむツアーに参加したのですが、一人のスタッフの動きが悪く、参加者の中からちょっと不満の声が出てきたのです。そんな不満の声に対し、別のスタッフが

「すみませーん、〇〇はゆとり教育なもんで。」

と言いました。すると参加者達は

「な~んだ。じゃあしょうがないな!」

と笑いあい、以後、不満の声は出ませんでした。

 

ここで注意していただきたいのは、ツアーに参加していた人達は不動産会社の社員旅行など、教育とは無関係の人達だったという事です。我々予備校業界の人間ならいざ知らず、教育とは無関係の人達にまで

 

ゆとり教育は駄目だった」

 

という事が、あたかも一般常識の様に浸透していたのです。これは私にとっても驚きでした。

 

ゆとり教育を受けた世代というのは、1987年~1997年生まれの人達です。2017年現在、20歳~30歳という事になります。つまり、もう2~3年は、「今年の新人はゆとりだから~」という言葉が皆さんの会社でも使われると思います。

 

では、ゆとり世代の特徴とはどんな特徴なのか。私が予備校講師として彼らに接してきた印象としては

 

マイペース

 

これが非常に大きいです。おそらく、新入社員として彼らに接した方々も、同様の印象を抱くでしょう。これらの印象をもう少し具体化すると

 

マイペース

=指示された事を完全にこなせない

=協調性に欠ける(他者との関係よりも自己の欲求を満たす事を優先)

 

となります。どうでしょう?社会人としては難有りですね。ただ、「マイペース」という部分は、少し見方を変えるとこうも言えます。

 

マイペース

=指示された事を完全にこなせない

=協調性に欠ける(他者との関係よりも自己の欲求を満たす事を優先)

=目的達成に時間はかかるが、それに対する意欲は強い

 

言い方は悪いのですが、彼らを操縦するには

 

目的やそのための指示を細かく段階的に出す

 

これが有効です。彼らは、自分の目的を達成するためには努力します。そこで、例えば

 

「これをいついつまでにやっておけ」

ではなく

「これを、1時間以内にここまでやり、その後何時までにここまでやり、最終的に何時までに仕上げてくれ。そうすれば、こうなるんだ。」

 

というように、スモールステップを踏ませる。はっきり言って面倒です。こんなやり方では効率も良くないかもしれません。

でも、思い出してください。彼らは打たれ弱いです。もし、何らかの理由で怒られたら、退職する可能性すらあります。決して安くない費用を出して採用した新人がすぐに辞めたら、会社にとってもメリットはありません。

そこでお勧めしたい接し方が

 

車線変更テクニック

 

です。はい、意味わかりませんね(笑)

具体的に言うと、いきなりこちらのやり方を押し付けるのではなく、少しずつこちらのやり方に染めていく。まあ、簡単に言えば「長い目で見てやる」という事です。車線変更だって、急に変更すると事故の元ですよね。徐々に慎重にやらなければいけない。それと同じです。

 

冒頭にも書きましたが、ゆとり世代は駄目だという風潮が広まっています。ただ、ゆとり世代にもちゃんとした若者はたくさんいます。

当たり前ですが、ゆとり世代を全否定するのは極めて愚かな事であり、個人個人の性質を見極める事が重要です。

 

 

車線変更25時

車線変更25時

 

 車線変更ということで、私の好きな曲をお薦めしようかなと(笑)この曲を聴くと、荒んでいた下積みを思い出します(笑)