今まで書いた歴史物語をまとめてみました

こんにちは。

仕事上の理由により、ブログの更新が滞ってます・・・

今まで、「現代の国際社会の出来事を世界史の知識に基づき理解する」というコンセプトのもと、「歴史物語」というシリーズ名でいくつかの記事を書いてきました。ただ、その本数が増えてきた結果、せっかくこのブログを見に来てくれた方が、何処にどんな記事が書いてあるかわからないという状況になりつつあるようです。

以前も授業中に「南京大虐殺なんて存在しないって事は、ブログに書いておいたから!」と言ったら、「先生、どの記事ですか?」と聞かれてしまいました。

もちろん、これは私のタイトルをつけるセンスの無さが原因なのですが、ここらで、少し今までの「歴史物語シリーズ」をまとめようと思い、以下に内容毎にまとめてみました。

大きく分けると

1「何故、ヨーロッパがイスラムテロの標的になるのか」

2「何故、北朝鮮と韓国の経済格差が生まれ、北朝鮮がミサイルを撃つのか」

3「何故、中国は反日なのか」

この三つになります。

もしよろしければ、過去の記事もご覧になっていただければ幸いです。



何故、ヨーロッパでテロが起きるのか。何故、イスラム教徒がテロを起こすのか。それらを世界史の観点から解説した記事がこちらです。

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なんで北朝鮮がミサイルを撃ったりアメリカを挑発するのか。南北朝鮮の経済格差はどうして生まれたのか。それらを解説した記事がこちらになります。

 

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天安門事件の具体的な中身、即ち、中国共産党による大虐殺が行われた実態や、その結果、中国共産党は国民の目をそらすため、反日政策を推進した事。さらには、南京大虐殺なんて存在しない事を解説した記事がこちらです。

 

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中国の反日思想の原点が、実は紀元前の中華思想にあるよ!なんて事を解説した記事がこちらになります。

 

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歴史物語〜反日国家の作り方〜 古代史編その6 受験競争はいつの時代も大変だ

こんにちは。

前回は漢民族なんてものは存在せず、中国は様々な民族が入り乱れる混乱状態であった事を御説明しました。今回と次回の記事で、バラバラな状態の中国が如何に統一されていくかを御説明します。

南北を結ぶ大運河の成立により、南北間の人や物の移動が活発化しました。
実は、隋の時代以前、中国は南北間の交流があまり活発ではありまさんでした。我々日本人もそうですが、鉄道や蒸気船の発明以前、遠距離の移動は非常に労力を伴うものでした。中国の場合、東西の移動は黄河や長江が使えます。しかし、南北間の移動は徒歩か馬を使うしかなく、当然、時間も労力も東西間の移動の比ではありません。その結果、南北間の交流はあまり行われず、文化や風習もそれぞれ独自に発展していきました。それを、結びつけたのが大運河なのです。
想像してみて下さい。文化や風習が異なり、さらに同じ民族でもなく、今まで同じ国家に暮らしていたわけでもない。そんな人達を結びつけたのが大運河であり、隋なのです。
文化も風習も民族すらも異なる人々を統一するのは、並大抵のことではありません。残念ながら、隋はそれに失敗しました。
6世紀末に中国を統一した隋は、バラバラである国民を統一するには外に敵をつくり、国民の目を外に向けるべきだと考え、朝鮮半島等に盛んに攻撃を繰り返します。しかし敗退を重ねてしまうのです。
ただでさえ、大運河の建設により重税や強制労働を課されていた国民は、皇帝に不満を抱き、相次ぐ敗戦がその不満を爆発させます。こうして隋は国民の支持を失い、その隙を突いて李淵という将軍がクーデターを起こし、隋は滅亡しました。隋の建国が581年で、中国を統一したのが589年、それに対し滅亡したのは618年ですから、如何に中国を統一するのが難しい事であったか、御理解いただけると思います。

李淵は隋を滅ぼした後、唐という王朝を建国しました。結論から言うと、この唐はおよそ300年間存続したという長期政権になりました。
何故、その様な長期政権が可能だったのか。その理由の一つに、やはり儒教があるのです。

隋を倒した唐でしたが、国民の支持を得なければ、隋の二の舞いになります。国民の支持を得る為には、政治を安定させる事が必要です。そこで、唐の第2代皇帝太宗は、中国の歴史上初の、そして極めて重要な改革を行いました。律令国家体制の確立です。

律令国家体制という言葉は、中学生の日本史でも扱うので、御存知の方も多いでしょう。簡単に言えば、「律令」とは「法律」の事です。つまり、律令国家体制とは「法律に基づいて治められる国家」、いわゆる法治国家という事になります。

おそらく皆さんは、法治国家の何処が重要な改革なのか、と疑問に思うかもしれません。実は、それまでの中国王朝はまさに法治国家の真逆で、法律など存在しないと言っても過言ではなく、皇帝が好き勝手に政治を行っていたのです。皇帝個人の能力に依存した国家体制とも言えます。優秀な皇帝の時は国が栄えるけど、無能な皇帝の時は国が傾く。この繰り返しだったわけです。当然、政治は安定せず、国民は苦しみます。

太宗は政治を安定させる事が国民の生活を安定させ、皇帝への忠誠心を高めると考えました。そして、皇帝の主観ではなく法律に基づいて政治をするべきだと考え、律令国家体制を確立させたのです。これは大成功に終わりました。政治が安定した事で国民の不満は抑えられ、また、法律を制定するのに官僚や貴族を用い、彼らを重視した事で知識人層の支持を得る事にも成功。長期政権の礎を築く事にも成功したのです。

今回はここまでにし、次回は儒教が中国統一に一役買ったという事を、御説明しようと思います。

歴史物語〜反日国家の作り方〜 古代史編その5 漢民族なんて存在しないってほんと?

こんにちは。

 前回は魏晋南北朝時代に国家の精神的支柱であった儒教が衰退した事で、中国の分裂状態に拍車がかかった事を御説明しました。

 今回は、民族という観点から、中国の分裂について御説明します。それが後々の、反日思想につながる事を念頭に置いておいて下さい。

 なお、今回のブログとは関係ありませんが、先日ネットにこの様な記事が出ていました。

http://news.livedoor.com/lite/article_detail/14211018/

 

 

 この記事の中で、漢族が94%を占めるとありましたが、ありえません。そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、今現在、漢民族などという民族は存在しません。もちろんこれは、定義にもよりますが、少なくとも純粋な漢民族は既に消滅しているのです。そしてそれも、中華思想反日思想につながります。今回は漢民族の消滅というテーマで、魏晋南北朝時代を御説明したいと思います。

 

 

 魏晋南北朝時代は、6世紀に隋が中国を統一する事で終結しました。しかしその隋も、中国を統一してから僅か30年ほどで滅亡してしまい、新たに唐という王朝が中国を支配するようになります。実はこの隋から唐にかけての時期に、儒教が復活するとともに、いわゆる中華思想が形成されていくのです。そして、前にも書きましたが、この儒教思想中華思想こそが、現在の反日政策の原点なのです。

 さて、ここで思い出していただきたいのは、そもそも中華思想とはなんだったかという事です。もちろん、中国皇帝こそが世界の中心であるという考え方ですよね。言い方を変えると、中国、そしてそこに住む漢民族が世界の中心であるという考え方です。では、漢民族とはどんな民族なのか。
結論から言いましょう。魏晋南北朝から隋の時代にかけ、漢民族は消滅します。厳密に言えば、春秋戦国時代の時点で漢民族は消滅したとも言えますが、それが隋の時代に決定的になったと考えて下さい。よく、中華四千年の歴史などと言いますが、そんなものは存在しません。

 では、そもそも漢民族とはどんな人達なのか。どんな定義なのか。
 周の時代、現在の陝西省、即ち黄河の上流から中流にかけての地域に住む人々が、漢民族を名乗りました。ところが春秋戦国時代になると、現在の河南省、即ち黄河中流から下流にかけて住む人々が漢民族を名乗り、陝西省に住む人々を異民族扱いするようになります。もちろん、陝西省河南省の人々がそっくりそのまま入れ替わったわけではありません。
 この事からもわかるように、漢民族というのは黄河流域に住む人々が名乗ったもの、つまりは、同じ地域に住む人々というだけのものでしかありません。また、この時代はまだ、漢民族とは黄河流域の民族だという言い方も出来ますが、秦の時代に中国が統一され、ベトナム方面やモンゴル方面まで領土が拡大すると、漢民族は各地へと移住していきます。その結果、漢民族は各地域で様々な異民族と融合し、どんどん漢民族の血は薄れていくのです。それが決定的になったのが、隋の時代でした。

 隋の時代に大運河が造られます。これは、中国の北と南を結ぶ大規模な運河でした。そして、この大運河こそが、中国を飛躍的に発展させると同時に、漢民族の消滅を決定的にし、さらに中華思想を成立させるのです。

 今回はここまでにし、次回は大運河が中国に与えた影響についてご説明したいと思います。

歴史物語〜反日国家の作り方〜 古代史編その4 バラバラになる中国と消えた儒教

こんにちは。

年明けから忙しく、ようやく今年初の投稿です・・・


前回は、漢王朝儒教を国民支配に利用したことで、およそ300年に及ぶ長期政権を実現した事を御説明しました。


今回はその儒教が一時的に衰退し、中国が分裂状態に陥る様を御説明します。いわゆる魏晋南北朝時代という分裂時代ですが、実はこの時代は、現在の反日国家中国への大きな転換点ともいえる重要な時代ともいえます。それをしっかりと覚えておいて下さい。


  およそ約300年に渡り儒教に基づき国民を支配した漢王朝は、3世紀に滅亡しました。この事は、それまで儒教を信奉していた中国国民に衝撃を与え、同時に儒教への不信感を抱かせました。当然ですよね。それまでは、儒教を信じていれば、言い方を変えると皇帝を敬っていれば世界は平和になる。漢王朝は国民にその様に説き、国民的もそう信じていたわけです。ところが、儒教を信奉していた漢王朝は滅亡してしまいました。国民は「なんだ、儒教を信じていても救われないじゃないか」と、儒教に不信感を抱くようになるのです。


  また、漢王朝は家臣によるクーデターで滅亡しました。目下の者が目上の者を倒すのがクーデターですよね。即ち、儒教の概念とは対極に位置するのがクーデターです。その様な方法で建国された王朝が、儒教の教えを広め「さあ皆さん、目上の人、即ち皇帝を敬いましょう!」などと言っても説得力のかけらもありません。こうして、儒教は国民の支持を失ったのです。

  漢王朝が滅亡した後、中国は三国志で有名な三国時代となります。その後、一時的に西晋という王朝が統一しますが、再び分裂し、いわゆる魏晋南北朝時代を迎えます。この時代の中国は悲惨でした。


  南北朝というくらいですから、南北に分割されたわけです。華北、即ち中国の北半分は異民族が支配し、華南、即ち南半分を漢民族が支配したと言われています。この南北分裂時代、華南は農業が発達し経済は安定しますが、約300年の間に6回も王朝が交代するなど短期政権が連続し、政治は安定しませんでした。また、経済の発展に伴い貧富の差が拡大していた挙句、皇帝や政治家達は権力闘争に明け暮れ、その資金を得る為、国民に重税を課します。ただでさえ貧富の差が拡大しているうえに重税を課される。たまったものではありません。


  一方、華北は異民族国家が乱立し、互いに争っていました。内戦状態にあったといって良いでしょう。当然、多くの農民が土地を失い、流浪の民と化しました。


  魏晋南北朝時代は3世紀から6世紀まで続きますが、華北でも華南でも庶民は虐げられていたわけです。歴史上、この様な状況では宗教が流行する事が多いです。虐げられた人々が救いを求め、宗教に走るわけです。当然、この時代も宗教が流行しますが、それは儒教ではありませんでした。人々は既に、儒教に見切りをつけていたのです。代わりに人々の間に広まったのが、仏教でした。


  仏教が中国に伝わったのは1世紀頃ですが、当時の中国は儒教による統治の真っ最中です。残念ながら、仏教が入り込む隙はなく、人々の間に広まる事はありませんでした。それが3世紀以降、儒教が国民の支持を失った事で台頭したわけです。それまで中国国家の精神的支柱であった儒教が衰退した事で、分裂状態に拍車がかかったとも言えます。


今回はここまでにし、次回は魏晋南北朝時代が後に中華思想が成立する一因となり、それと同時に儒教が復活する。そしてその二つが、現在の反日政策につながっていく流れを御説明したいと思います。


世界史を学ぶ人にお勧めの本 その12〜資生堂で学ぶ銀座の歴史と文明開化〜

こんにちは。

 
今日は久々に、本を紹介しようかなと思います。おそらく、今回が今年最後の投稿になりそうなので、どんな本を紹介すべきか迷ったのですが、やはり日本に関する本にしようかなと。世界史を学ぶ人にお勧めの本ではないのか!というツッコミを受けそうですが、今回は明治、大正、昭和と日本がどの様に西欧文化を取り入れ発展したかを、ある企業を通じて御理解いただくために、こちらの本を御紹介します。
 

 

 

 
そうです。皆さん御存知の資生堂です。国内シェア第1位の化粧品メーカーですので、おそらく知らない方はいないでしょう。
 
もっとも、この本は現在の資生堂について紹介する本ではありません。
資生堂の前身にあたる薬局を銀座に開いた、資生堂創業者の福原有信氏や、その御子息であり資生堂初代社長の福原信三氏の親子のお話です。
 
こう書くと、なんだ資生堂の社史か、と思われるかもしれませんが、そうではありません。
 
銀座という街が西欧文化を取り入れる拠点となり、独自の文化を育んでいく様子や、明治から昭和にかけての銀座の歴史を学ぶ事が出来ます。また、お二人の活動を通じて当時の欧米文化を学ぶ事も出来ます。
 
筆者の論文をそのまま書籍化したのか、読みにくい部分もありますが、文明開化の時代の日本や世界を学ぶのに、お勧めの本です。
 

歴史物語〜反日国家の作り方〜 古代史編その3 万里の長城が中国を滅ぼした?

  こんにちは。サービス業である予備校講師にとって、クリスマスなど無関係です。わかってはいるのですが、世間の盛り上がりに少し不満を感じます。今回はそんな不満が国を滅ぼす。そんなお話です(あいもかわらず強引な導入ですね・・)

  前回の記事では、中国が春秋戦国時代と呼ばれる分裂状態にあったという事と、儒教思想とは目上の人を敬う事が根本理念であり、それが皇帝独裁に利用されるという事を御説明しました。今回は、儒教が初めて中国で皇帝独裁に利用された例を御説明します。

  春秋戦国時代は、紀元前3世紀に始皇帝が中国を統一する事で終結しました。最終的に7ヶ国に分裂していた中国を、統一したわけです。しかし、結論から言えば15年ほどで滅亡する短期政権になってしまいました。その原因は国民の不満を抑える事が出来なかった。これに尽きます。

  始皇帝による統一の前、7ヶ国はそれぞれ異なる通貨や度量衡を使用していました。当然ですが、始皇帝は中国統一後、通貨や度量衡を統一しました。

  後世の人間からすれば、始皇帝のこの措置は、物流を活発化させ後の世の発展の土台を築いた措置と考えられますが、当時の人々はそうは捉えません。自分達がそれまで使っていた通貨や度量衡を禁止され、不満が高まります。また、分裂状態の中国を統一するためには、急速な中央集権化が必要です。その為には、全国共通のルール、即ち法を制定する必要がありました。

  想像してみてください。それまでは自治どころか好き勝手に政治をしていた地方の有力者達は、法に束縛される事に当然不満を覚えます。こうして始皇帝の国内政策に対する不満が高まっていくのですが、それを爆発させたのは彼の対外政策でした。

  中国を統一した始皇帝は、ベトナムへの遠征や、それまで中国への侵略を繰り返していたモンゴル高原の異民族への攻撃を行います。しかし、モンゴル高原の異民族を全滅させるには至りませんでした。復讐を恐れた始皇帝は、彼らの侵入を防ぐため、それまで部分的に造られていた万里の長城を繋ぎ合わせたのです。

  当然ですが、この万里の長城建設やモンゴル高原ベトナムへの遠征には、莫大な費用がかかります。もちろん、それは国民への重税となる訳です。さらには万里の長城建設のため、農民は強制労働を課されます。強制労働に従事している間は仕事が出来ず、収入が減ってしまう。重税を課せられたうえに収入が減る。これで怒らない方がおかしいですね。

  この様に地方有力者や国民の不満が高まった事で、秦は始皇帝の死後、反乱が起き呆気なく滅亡してしまいます。

  秦の滅亡後、一時的に分裂状態となった中国ですが、すぐに前漢により統一されました。

  当初前漢は、国内政策を重視して対外的には消極策を執りました。これは、対外策を重視した事で国民の反発を招いた秦を反面教師とした訳です。

  紀元前3世紀末に成立した前漢ですが、そこから60年ほどは国内を重視する政策を続けます。しかし、紀元前2世紀後半に即位した武帝という皇帝は、それまでの対外消極策を改め、対外積極策に転換します。それは始皇帝の比ではなく、モンゴル高原朝鮮半島ベトナムへの軍事遠征に加え、中央アジア方面への進出を図るなど、東西南北ありとあらゆる方向への対外政策を実施したのです。当然、これらには莫大な費用がかかり、またしても国民は不満を持つ訳です。この国民の不満を抑えるため、武帝が利用したのが儒教だったのです。

  思い出して下さい。周は土地という限りがある物質に依存したため、滅亡しました。秦は法律で人々を束縛しようとして滅亡しました。それに対し武帝は、目上の人を敬う儒教思想を国民に広め、皇帝を敬わせようとした。つまりは国民の心を支配しようとした訳です。この目論見は上手くいきます。武帝儒教を官学化、簡単に言えば全国民の必修科目にした事により、儒教思想が国民に普及しました。前漢はその後、およそ100年ほど続き、一時的に新という王朝に取って代わられますが、その後成立した後漢を含めると、約300年に渡って中国を支配したのです。

  こうして、儒教による支配が長期政権樹立に有効である事が証明された訳ですが、実はこれが、中国に悲劇をもたらし、また、現在の反日政策の一因となっていくのです。

  今回はここまでにし、次回はその後の中国王朝が如何に儒教を利用したかを御説明しようと思います。

歴史物語〜反日国家の作り方〜 古代史編その2 家族は大事にしよう!

こんにちは。
  前回の記事では、毛沢東習近平は独裁者であり、中国には歴史上独裁国家しか存在していないんだという事と、その独裁体制を孔子儒教思想が支えたのだという事を御説明しました。

  今回は孔子が何故、儒教思想を創り出したのか。孔子が生きていた時代を見つつ、儒教思想がどの様なものなのかを御説明していきます。

  孔子が活躍した紀元前6世紀、中国は簡単に言えば内戦状態でした。春秋戦国時代という言葉を聞いた事がある人も多いと思います。その名の通り、日本の戦国時代の様に軍事政権が中国各地に乱立し、抗争を繰り返していたのです。各国との戦争に打ち勝つ為には、当然ですが戦略が必要となります。そこで各国の君主は、その様な戦略を持ち合わせている有能な人材を求めました。その中の一人が孔子でした。

  もちろん、孔子は軍人ではありません。思想家です。彼に求められているのは、国内を統一する方法だったのです。

  春秋戦国時代が始まる以前、中国には統一国家は存在せず、周という国が各地の小国家を束ねている状態でした。周は各地の有力者に土地を与え、その代わりに軍役や納税の義務を課していました。いわゆる、封建制度です。

  この封建制度にはいくつかの問題点がありました。まず、土地を与える事で地方が強大化すると、次第に地方の支配者は中央政府の言う事を聞かなくなります。つまり、地方分権が進んでしまうのです。中央集権を目指す国王にとっては都合が悪いですね。また、「土地」という物質的なものに頼るのも、よくありません。当然、土地には限りがあり、いつかは家臣に与えるべき土地が無くなってしまいます。

  封建制度に依存していたが故に、周は中国を統一する事は出来ず、紀元前8世紀、異民族により都が陥落しその弱体化が表面化すると、各地の有力者は周王から離れて行き、春秋戦国時代が始まるのです。

  先ほど、各国の君主は他国に打ち勝つ為の戦略を求め、有能な人材を求めていたと書きました。当たり前の事ですが、国内がバラバラの分裂状態の国が、戦争に勝てる訳がありません。戦争に勝つためには、国内を一致団結させる必要があります。もうおわかりですね。各国の君主が求めていたのは軍事的な戦略だけではなく、如何に国民を一致団結させ国内を治めるかという、統治政策も求められていたのです。

  さて、では孔子が主張した儒教思想とはどの様なものであったのか。根本にあるのは、「家族を大事にする」、「目上の人を敬う」という二つの思想です。

  まず、「家族を大事にする」という思想ですが、誰しもが自分の家族を傷つけたくはない。そうすると、隣の家族や他の家族と争いを起こさない。結果的に、世界が平和になる。孔子はこの様に考えたのです。家族を大事にするというのは素晴らしいのですが、気がついた方もいるでしょう。孔子は「各自が自分の家族を大事にするべきだ」と言っています。言い方を変えれば、「他人の家族はどうなってもかまわない」という事になります。排他的ですよね。これは後々、重要になってくるので覚えておいて下さい。

  次に、「目上の人を敬う」という思想ですが、これは支配者にとって極めて都合が良いものです。例えば、農民の子供から見れば、目上の人は両親です。当時は身分制社会ですから、両親の目上の人は村長、村長の目上の人は郡や県を治める役人、その役人の目上の人はと、どんどん目上の人を辿っていくと、皇帝に行きつくわけです。もちろん、孔子は皇帝を敬えなどと一言も言っていませんが、「目上の人を敬う」という孔子の思想が皇帝など支配者にとって都合が良いのは事実です。そのため、孔子の創り上げた儒教思想は、後の歴代中国王朝が、独裁を正当化するために使う事になるのです。

  如何でしたでしょうか?儒教思想独裁国家とって都合の良い物だと、御理解いただけたと思います。

  今回はここまでにし、次回はその後の中国王朝が、儒教をどの様に活用したかを御説明しようと思います。