歴史物語~大航海時代とイスラム世界~その2

 こんにちは。

 ようやく、暑くなってきましたね。私が子供の時に比べると、より暑くなった気がします。しかし、この仕事をしている限り、夏は夏期講習で忙しく、海に行く事など夢のまた夢・・・

 たまには、海で羽を伸ばしたいもんです。もっとも、海が幸せを運んでくるとは限りません。オスマン帝国なんて、大西洋のおかげで酷い目にあいます。そう、強引ですが、今回はオスマン帝国に関するお話です。

前回

 

大航海時代イスラム過激派誕生の一因である。

という観点から、イスラム世界の東部に位置するインドがヨーロッパ諸国に蹂躙される歴史を御紹介しました。今回は、東部のインドに対し、西部に位置するオスマン帝国はどの様な状況だったのか。これを御紹介したいと思いますが、かなり長くなってしまいます。というのも、オスマン帝国は13世紀末に建国されますが、第一次世界大戦後に滅亡します。つまり、600年以上も続く長期政権で、その分、ヨーロッパの侵略にさらされる事も多いのです。なので、オスマン帝国が如何にヨーロッパに侵略されていくかは、何回かに分けて御紹介しようと思います。

 

 さて、では16世紀、大航海時代オスマン帝国は、ヨーロッパ諸国にどの様に侵略されたのか。実は、結論から言えば侵略される事もなく、良くも悪くも安定していました。インドとは正反対です。何故か。はっきり言えば、ヨーロッパ諸国にとってインドほどの価値が無かったからです。

 17世紀、オスマン帝国は再びウィーンを包囲しますが、失敗し撤退に追い込まれます。その結果、オーストリアとの講和条約ハンガリーを割譲させられ、ヨーロッパ領の大半を失ってしまいました。これは、単に領土を失ってしまったという問題ではありません。 

 16世紀の大航海時代まで、オスマン帝国は地中海を使った貿易で、ヨーロッパ諸国と交流がありました。その後、ヨーロッパ諸国が新大陸との貿易や、アフリカやインドを経由した貿易に重点を置いたことで、貿易の舞台が大西洋に移り地中海の重要性が失われた後も、ハンガリー等のヨーロッパ領を使い、陸路ではオスマン帝国とヨーロッパ諸国の交流があったわけです。しかし、17世紀のウィーン包囲失敗で、ハンガリーを失ってしまいました。するとどうでしょう。もはや、陸路でも海路でも、オスマン帝国はヨーロッパ諸国との交流が激減してしまったのです。

 一見すると、ヨーロッパ諸国との交流が途絶えるというのは良い事のように思えますよね。もうキリスト教徒に侵略される事も無い。イスラム教徒による平和な国家をつくる事が出来る。ですが、思い出してください。当時、大航海時代によってヨーロッパ諸国が、商工業が発達し各国共に飛躍的な発展を遂げていた時代です。

 そんな時代に、ただでさえ、地中海の貿易の舞台としての役割が減少し、国際貿易のネットワークから外れてしまっていたオスマン帝国が、ハンガリー等のヨーロッパ領を失いヨーロッパ諸国との交流が途絶えるとどうなるか。もうわかりますよね。近代化に取り残されてしまったわけです。

 17世紀以降、ヨーロッパはいわゆる絶対王政の時代を迎え、国王を中心とした独裁体制が出来上がりました。これにより国内が安定したのですが、一つ問題が起こります。絶対王政は国王が多くの官僚を通じて国内を支配するシステムなのですが、その官僚の人件費が、各国の財政を圧迫してしまうのです。そこで、各国は絶対王政を維持するため、領土を拡大し財源を確保しようとします。そうすると、当然ですが各国間で領土を巡る争いが起こり、各国は、国王を中心に他国に対抗するため近代化を進める事になりました。日本でいうところの戦国時代をイメージして下さい。各国は領土争いを繰り返す等、互いに切磋琢磨していました。その結果、ヨーロッパ全体で近代化が進んでいくのです。

 オスマン帝国はその近代化の流れに、完全に取り残されてしまいました。その結果、オスマン帝国自体は弱体化したわけではありませんが、ヨーロッパ諸国に対し相対的に弱体化してしまうのです。この、オスマン帝国の相対的弱体化の流れに、拍車をかける出来事が起こります。産業革命です。

 実は産業革命こそが、イスラム世界の人々に大きな被害を与え、ヨーロッパ諸国に対する怒りを大幅に増幅させる結果となるのです。そしてそれが、イスラム過激派誕生へとつながっていきます。

 産業革命については、次回、御紹介しようと思います。