歴史物語~産業革命とイスラム世界その2~

 こんにちは。

 暑い日が続きますね。こう暑いと、弱ってしまいます。という訳で、今回はオスマン帝国が弱体化するというお話です。毎回、強引な導入でお恥ずかしい・・・

 

 前回の記事では

産業革命イスラム世界に大打撃を与え、ヨーロッパ社会への恨みが増幅した。

 という観点から、産業革命を始めたイギリスにより、インドが経済的に支配されていく過程を御紹介しました。

 今回はインドに続き、オスマン帝国がイギリスに経済的に侵略されていく様子を御紹介したいと思います。

 ですが、いきなり19世紀のオスマン帝国を紹介するよりも、それ以前のオスマン帝国について知っていた方がわかりやすいと思うので、18世紀のオスマン帝国の状況から振り返っておきましょう。

 18世紀前半、オスマン帝国では上流階級を中心に、フランス等西欧諸国の文化が流行し、多くの文芸作品や医学書等も輸入されました。その中でも、とりわけ人気を博したのがチューリップです。上流階級の人々がチューリップを熱烈に愛し、投機の対象にまでなった事から、この時代をチューリップ時代と呼びます。この様に、オスマン帝国にはヨーロッパの文化に好意的な感情が形成されていていました。しかし、これはあくまで上流階級に限っての事です。庶民の間では、依然として西欧諸国への印象は悪く、チューリップ時代も民衆の暴動が頻発し終焉に向かっています。つまり、この時代のオスマン帝国における西欧諸国への印象は、好意的な印象を持ち受け入れる意思がある上流階級と、悪印象を持ち拒絶する庶民との間で二分されていたのです。そして、上流階級に限定されていたとはいえ、西欧諸国に好印象を持つ人々が増えていた事が、オスマン帝国にとっては悲劇でした。

 19世紀になると、オスマン帝国の弱体化は誰の目にも明らかでした。教科書では、この時期のオスマン帝国を「瀕死の病人」と表現しているほどです。トルコ人の支配に反発しアラビア半島独立運動が発生。現在のサウジアラビア王国であるワッハーブ王国が成立しました。さらに、イスラム教支配に反発しギリシアが独立を宣言。1821年にギリシア独立戦争が始まりました。この戦争は、バルカン半島勢力を拡大したいロシアや英仏も介入し、国際戦争に発展します。そして、オスマン帝国は敗北しギリシアの独立が認められたのです。しかし、オスマン帝国にとっての悲劇は終わりません。エジプトとの間で戦争が勃発したのです。

 エジプトは16世紀にオスマン帝国に征服されました。その後、1798年にナポレオンがエジプト遠征を行います。当然、オスマン帝国はそれを阻止すべく軍隊をエジプトに派遣しました。その派遣された軍の中に、ムハンマド=アリーという将校がいました。ナポレオン軍の近代的兵器に感銘を受けた彼は、ナポレオン軍撤退後、オスマン帝国の許可を得てエジプト総督に就任し、西洋式軍隊の創設や官営工場の建設等、エジプトの近代化に努めました。こうしてエジプト軍が強化されていく最中、起きたのがギリシア独立戦争だったのです。当然、オスマン帝国はエジプト軍にも出兵を要求しました。当時、オスマン帝国の軍隊は近代化が進んでおらず、エジプト軍の方が精強でした。しかし、世界一の大国になりつつあるイギリスに加え、フランスやロシアの軍隊が支援するギリシアに勝てる訳もなく、オスマン帝国とエジプトの軍隊は敗北。前述した通り、ギリシアの独立が認められました。この戦いでオスマン帝国の弱体化に気がついたムハンマド=アリーは、オスマン帝国からの独立を決意します。そして、1831年、エジプト‐トルコ戦争が勃発したのです。この戦争でエジプトが勝利し、オスマン帝国からの独立が実現しました。

 こうして、オスマン帝国アラビア半島ギリシア、エジプトを失い、領土が激減。近代化の必要性を痛感しました。そこに、イギリスが摩の手を差し伸べてくるのです。

 

 いかがでしょうか。19世紀のオスマン帝国が如何に弱体化したかが御理解いただけたかと思います。次回は、そこにイギリスが如何に介入してくるかを書いていきたいと思います。