歴史物語~産業革命とイスラム世界その3~

 こんにちは。 

 前回の記事では19世紀にオスマン帝国が弱体化していく様子を御紹介しました。今回はその続きとなりますが、結論から言えば、イギリスがイスラム世界から大いに恨みを買うというお話です。もうおわかりかと思いますが、それが現在のイスラムテロにつながる訳です。

 それでは早速、弱体化したオスマン帝国を、どのようにイギリスが侵略していくのか見ていきましょう。(ついに今回は導入無し!)

 

 1838年、イギリスとオスマン帝国はトルコ=イギリス通商条約を締結しました。この条約はオスマン帝国関税自主権が認められていない、不平等条約でした。オスマン帝国としては、不利な条件でも良いから、西欧諸国との交流を活発化させる事で近代化を図ろうとしたのでしょう。相次ぐ戦争の敗北やチューリップ時代を経験した事が、この条約の締結を後押ししたのです。しかし、結果から見ればこの条約は大失敗でした。

 思い出してください。当時のイギリスは産業革命により、生産能力が飛躍的に向上し、大量生産が実現した時代です。イギリス製品は大量生産されている分、非常に安価なのです。そんな安価なイギリス製品に対し、オスマン帝国は関税をかける事が出来ないのです。どうなるか。

 当然ですが、オスマン帝国の国産品はイギリス製品に太刀打ちできず、売れなくなってしまいます。結果、大量の失業者を出してしまいました。インドの二の舞になってしまったのです。こうして失業者の大量発生により経済が大打撃を受けたオスマン帝国でしたが、イギリスの経済的侵略は続きます。

 1853年、ロシアとオスマン帝国の間でクリミア戦争が勃発しました。ナイティンゲールが活躍した事でも有名な戦争ですが、そもそもの発端は、ロシアが地中海進出の為に、トルコが支配しているボスフォラス海峡等を奪おうとした事でした。これにイギリスが怒ります。

 当時、イギリスはエジプトを中継地点としてインドと貿易をしていました。つまり、地中海はイギリスにとってエジプトへの最短ルートとして極めて重要な場所なのです。そこを、ロシアに奪われたらたまったものではない。イギリスはフランスと共にオスマン帝国を援助します。結果、オスマン帝国は戦争には勝ちましたが、イギリスに援助の見返りに貿易の拡大を認めさせられ、さらにはイギリス資本の銀行まで設立させられてしまいました。もはや、オスマン帝国がイギリスに経済的に侵略されている事は、誰の目にも明らかです。その他にも、イギリスの指示で鉄道建設等を実施した結果、1875年、ついにオスマン帝国は財政が破綻してしまいました。そのため、イギリスから融資を受けざるを得なくなり、イギリスの経済的支配下に置かれました。

 いかがでしょうか。こうしてオスマン帝国は、市場としての価値が低下しつつあった西欧諸国に代わり、イギリスの市場にされてしまったのです。当然、オスマン帝国の人々、とりわけ、失業等の憂き目に遭った庶民の間では、イギリスに対する憎しみが高まっていきます。

 19世紀のイギリスは他にも、ロシアの南下政策からインドを防衛するため、イランやアフガニスタンを支配下に置く等、イスラム世界へどんどん進出していきました。当然、これらの行為はイスラム教徒の人々の怒りに火を付けます。そしてそれは、パン=イスラム主義という形で表面化しました。

 パン=イスラム主義とは、イランの思想家アフガーニーと、その弟子であるムハンマド=アブドゥフが広めた思想で、イスラム教徒は国や民族を超えて一致団結し、外国の侵略に立ち向かうべきという考え方です。もうおわかりかと思いますが、ここでいう「外国」というのが、イギリスを指すのです。

 アフガーニー達の活躍により、19世紀後半になるとイスラム世界では、イギリスに反発する人々が国を越えて結束していきます。こうして、それまでは分裂していたイスラム世界が、反イギリスの旗印の下、結束し始めたのです。もちろん、イギリス等西欧諸国はこの動きを見逃さず、ことある毎に弾圧しようとしましたが、それは人々の反イギリス感情を増幅させただけで、逆効果でした。

 この様に、19世紀はイスラム世界が反西欧諸国、とりわけ反イギリスで結束した時代となってしまったのです。そしてそれが、テロが頻発する現在の世界へとつながっていくわけです。

 

 いかがでしょうか。今回で、いったん歴史物語シリーズは終わりにしますが、16世紀の大航海時代から19世紀まで、そして現在までがつながっているという事が御理解いただけたのではないでしょうか。少しでも、「歴史とは現在まで続く物語である」という事が実感いただければ幸いです。