歴史物語 〜反日国家の作り方〜現代編その2 みんなで暴れれば怖くない?

  こんにちは。
  前回は経済復興の為に尽力した鄧小平が、うっかり日米等を民主主義国を利用しようとした事で、中国で民主化運動が盛り上がる様子を御紹介しました。
  今回はその民主化運動が、天安門事件という悲劇を起こし、それが反日運動につながる様を2回に分けて御紹介しようと思います。

  1989年6月4日、天安門事件が勃発しました。一言で言えば、中国共産党による民間人大量虐殺事件です。そしてこの天安門事件が、反日運動へとつながっていくのです。

  順を追って説明していきましょう。

  鄧小平の進めた海外企業の誘致政策により、日米等の民主主義国の情報を入手した中国国民の間で、複数政党制や普通選挙の実施等、民主化を求める声が高まっていました。そしてその声は、一部の政治家にも波及します。胡耀邦総書記です。実は彼こそが、ある意味では天安門事件の引き金を引いたと言っても過言ではない人物なのです。

  胡耀邦は中国の政治家としては珍しく、民主化に理解を示す等、改革派の政治家でした。しかし、それが仇となってしまいます。

  イメージして下さい。中国共産党一党独裁という事は、利益は共産党が独占出来ます。共産党の政治家の多くが、その利益を享受しているわけです。そんな彼らからしてみれば、民主化、即ち複数政党制に理解を示す胡耀邦は、自分達の利益を脅かす存在であり、到底認める事は出来ません。結果、権力闘争の末に胡耀邦は失脚してしまうのです。

  胡耀邦は1987年1月に総書記を解任され失脚します。失脚後も、彼は民主化等の改革を訴え続けましたが、1989年4月15日に心筋梗塞で亡くなりました。実は彼の死こそが、天安門事件の始まりとも言えるのです。

  彼が失脚する1年ほど前、1986年頃から、胡耀邦に賛同する学生が中心となり、各地でデモが行われていました。そのデモが、胡耀邦の死によって天安門事件へと発展します。

  胡耀邦が亡くなった翌日、各地で彼を慕っていた学生達が追悼集会を開きました。最初は小規模な集会でしたが、4月18日になると、北京市内に1万人を超す人々が集まり、天安門広場を占拠し民主化を訴えるようになります。その後、デモ参加者の人数は増え続け、4月21日には10万人を超えました。

  当初、一部の政治家はこのデモを平和的に解決しようと努力していました。その証拠に、極秘に日本に協力を依頼し、軍隊による虐殺ではなく、警察による暴徒鎮圧方法を学ぼうとしています。

  しかし、それらの努力も虚しく、デモは中国各地に広まり、学生による放火や破壊などの暴力行為も多発しました。5月に入ると、天安門広場を占拠するデモ隊の人数は50万人を超えてしまいます。

  この様にデモ隊が増え続けていく中で、ある人物が中国を訪れます。ソ連最高指導者のゴルバチョフです。実は彼の中国訪問が、天安門事件のきっかけの一つなのです。

  今回はここまでにし、次回はゴルバチョフ訪中が何故天安門事件につながるのかを御説明しようと思います。