歴史物語〜反日国家の作り方〜 古代史編その3 万里の長城が中国を滅ぼした?

  こんにちは。サービス業である予備校講師にとって、クリスマスなど無関係です。わかってはいるのですが、世間の盛り上がりに少し不満を感じます。今回はそんな不満が国を滅ぼす。そんなお話です(あいもかわらず強引な導入ですね・・)

  前回の記事では、中国が春秋戦国時代と呼ばれる分裂状態にあったという事と、儒教思想とは目上の人を敬う事が根本理念であり、それが皇帝独裁に利用されるという事を御説明しました。今回は、儒教が初めて中国で皇帝独裁に利用された例を御説明します。

  春秋戦国時代は、紀元前3世紀に始皇帝が中国を統一する事で終結しました。最終的に7ヶ国に分裂していた中国を、統一したわけです。しかし、結論から言えば15年ほどで滅亡する短期政権になってしまいました。その原因は国民の不満を抑える事が出来なかった。これに尽きます。

  始皇帝による統一の前、7ヶ国はそれぞれ異なる通貨や度量衡を使用していました。当然ですが、始皇帝は中国統一後、通貨や度量衡を統一しました。

  後世の人間からすれば、始皇帝のこの措置は、物流を活発化させ後の世の発展の土台を築いた措置と考えられますが、当時の人々はそうは捉えません。自分達がそれまで使っていた通貨や度量衡を禁止され、不満が高まります。また、分裂状態の中国を統一するためには、急速な中央集権化が必要です。その為には、全国共通のルール、即ち法を制定する必要がありました。

  想像してみてください。それまでは自治どころか好き勝手に政治をしていた地方の有力者達は、法に束縛される事に当然不満を覚えます。こうして始皇帝の国内政策に対する不満が高まっていくのですが、それを爆発させたのは彼の対外政策でした。

  中国を統一した始皇帝は、ベトナムへの遠征や、それまで中国への侵略を繰り返していたモンゴル高原の異民族への攻撃を行います。しかし、モンゴル高原の異民族を全滅させるには至りませんでした。復讐を恐れた始皇帝は、彼らの侵入を防ぐため、それまで部分的に造られていた万里の長城を繋ぎ合わせたのです。

  当然ですが、この万里の長城建設やモンゴル高原ベトナムへの遠征には、莫大な費用がかかります。もちろん、それは国民への重税となる訳です。さらには万里の長城建設のため、農民は強制労働を課されます。強制労働に従事している間は仕事が出来ず、収入が減ってしまう。重税を課せられたうえに収入が減る。これで怒らない方がおかしいですね。

  この様に地方有力者や国民の不満が高まった事で、秦は始皇帝の死後、反乱が起き呆気なく滅亡してしまいます。

  秦の滅亡後、一時的に分裂状態となった中国ですが、すぐに前漢により統一されました。

  当初前漢は、国内政策を重視して対外的には消極策を執りました。これは、対外策を重視した事で国民の反発を招いた秦を反面教師とした訳です。

  紀元前3世紀末に成立した前漢ですが、そこから60年ほどは国内を重視する政策を続けます。しかし、紀元前2世紀後半に即位した武帝という皇帝は、それまでの対外消極策を改め、対外積極策に転換します。それは始皇帝の比ではなく、モンゴル高原朝鮮半島ベトナムへの軍事遠征に加え、中央アジア方面への進出を図るなど、東西南北ありとあらゆる方向への対外政策を実施したのです。当然、これらには莫大な費用がかかり、またしても国民は不満を持つ訳です。この国民の不満を抑えるため、武帝が利用したのが儒教だったのです。

  思い出して下さい。周は土地という限りがある物質に依存したため、滅亡しました。秦は法律で人々を束縛しようとして滅亡しました。それに対し武帝は、目上の人を敬う儒教思想を国民に広め、皇帝を敬わせようとした。つまりは国民の心を支配しようとした訳です。この目論見は上手くいきます。武帝儒教を官学化、簡単に言えば全国民の必修科目にした事により、儒教思想が国民に普及しました。前漢はその後、およそ100年ほど続き、一時的に新という王朝に取って代わられますが、その後成立した後漢を含めると、約300年に渡って中国を支配したのです。

  こうして、儒教による支配が長期政権樹立に有効である事が証明された訳ですが、実はこれが、中国に悲劇をもたらし、また、現在の反日政策の一因となっていくのです。

  今回はここまでにし、次回はその後の中国王朝が如何に儒教を利用したかを御説明しようと思います。