歴史物語〜反日国家の作り方〜 古代史編その6 受験競争はいつの時代も大変だ

こんにちは。

前回は漢民族なんてものは存在せず、中国は様々な民族が入り乱れる混乱状態であった事を御説明しました。今回と次回の記事で、バラバラな状態の中国が如何に統一されていくかを御説明します。

南北を結ぶ大運河の成立により、南北間の人や物の移動が活発化しました。
実は、隋の時代以前、中国は南北間の交流があまり活発ではありまさんでした。我々日本人もそうですが、鉄道や蒸気船の発明以前、遠距離の移動は非常に労力を伴うものでした。中国の場合、東西の移動は黄河や長江が使えます。しかし、南北間の移動は徒歩か馬を使うしかなく、当然、時間も労力も東西間の移動の比ではありません。その結果、南北間の交流はあまり行われず、文化や風習もそれぞれ独自に発展していきました。それを、結びつけたのが大運河なのです。
想像してみて下さい。文化や風習が異なり、さらに同じ民族でもなく、今まで同じ国家に暮らしていたわけでもない。そんな人達を結びつけたのが大運河であり、隋なのです。
文化も風習も民族すらも異なる人々を統一するのは、並大抵のことではありません。残念ながら、隋はそれに失敗しました。
6世紀末に中国を統一した隋は、バラバラである国民を統一するには外に敵をつくり、国民の目を外に向けるべきだと考え、朝鮮半島等に盛んに攻撃を繰り返します。しかし敗退を重ねてしまうのです。
ただでさえ、大運河の建設により重税や強制労働を課されていた国民は、皇帝に不満を抱き、相次ぐ敗戦がその不満を爆発させます。こうして隋は国民の支持を失い、その隙を突いて李淵という将軍がクーデターを起こし、隋は滅亡しました。隋の建国が581年で、中国を統一したのが589年、それに対し滅亡したのは618年ですから、如何に中国を統一するのが難しい事であったか、御理解いただけると思います。

李淵は隋を滅ぼした後、唐という王朝を建国しました。結論から言うと、この唐はおよそ300年間存続したという長期政権になりました。
何故、その様な長期政権が可能だったのか。その理由の一つに、やはり儒教があるのです。

隋を倒した唐でしたが、国民の支持を得なければ、隋の二の舞いになります。国民の支持を得る為には、政治を安定させる事が必要です。そこで、唐の第2代皇帝太宗は、中国の歴史上初の、そして極めて重要な改革を行いました。律令国家体制の確立です。

律令国家体制という言葉は、中学生の日本史でも扱うので、御存知の方も多いでしょう。簡単に言えば、「律令」とは「法律」の事です。つまり、律令国家体制とは「法律に基づいて治められる国家」、いわゆる法治国家という事になります。

おそらく皆さんは、法治国家の何処が重要な改革なのか、と疑問に思うかもしれません。実は、それまでの中国王朝はまさに法治国家の真逆で、法律など存在しないと言っても過言ではなく、皇帝が好き勝手に政治を行っていたのです。皇帝個人の能力に依存した国家体制とも言えます。優秀な皇帝の時は国が栄えるけど、無能な皇帝の時は国が傾く。この繰り返しだったわけです。当然、政治は安定せず、国民は苦しみます。

太宗は政治を安定させる事が国民の生活を安定させ、皇帝への忠誠心を高めると考えました。そして、皇帝の主観ではなく法律に基づいて政治をするべきだと考え、律令国家体制を確立させたのです。これは大成功に終わりました。政治が安定した事で国民の不満は抑えられ、また、法律を制定するのに官僚や貴族を用い、彼らを重視した事で知識人層の支持を得る事にも成功。長期政権の礎を築く事にも成功したのです。

今回はここまでにし、次回は儒教が中国統一に一役買ったという事を、御説明しようと思います。