歴史物語〜反日国家の作り方〜 中世史編その1 落ちぶれた漢民族

こんにちは。 
仕事に忙殺され、1ヶ月近くブログを放置してしまいました・・
私事ですが、4月からこれまでのキャリアの中でも一二を争うほど忙しくなりそうでして。今後もブログの更新が滞ると思うのですが、お付き合いいただければ幸いです。

前回の歴史物語の記事では、唐王朝漢民族の分裂を防ぐため、中華思想儒教思想を利用したという事を御説明しました。

今回は唐が滅亡した後、漢民族が落ちぶれていく様子を御紹介したいと思います。

10世紀初頭の唐の滅亡後、中国は各地に軍事独裁政権が乱立する、五代十国時代と呼ばれる内戦状態となります。
その後、11世紀に宋という王朝が中国を統一しますが、宋は軍事独裁への反省から、軍人を削減しその分官僚を増やし、官僚中心の政治を目指しました。当然ですが、軍人が減ってしまった事で軍が弱体化します。さらに、反乱を恐れた宋の皇帝は、地方の軍から精鋭を禁軍と呼ばれる皇帝の親衛隊に引き抜きました。その結果、地方軍は質も量も弱体化しました。国境を守る地方軍が弱体化した訳です。もちろんこれは、宋の周辺異民族からしてみれば、領土を奪う絶好のチャンスでした。度重なる異民族の攻撃に対し劣勢に立った宋は、講和条約を結び、毎年銀や絹を贈る事で和平を維持する事にしました。要するに、お金で平和を買った訳です。ですが、これは長く続きませんでした。
宋は12世紀前半に、女真族という異民族に都を占領され、さらに皇帝と上皇女真族によって中国東北地方、即ち後の満州へと連れ去られてしまった事で滅亡しました。
生き残った漢民族は南へと逃げて行き、長江流域を中心に南宋という国を建国。こうして中国大陸は、北を女真族が支配し、南を漢民族が支配するようになり、再び南北に分裂してしまったのです。
どうでしょう。唐が滅亡した後の漢民族、情け無いですね。異民族に攻撃を受けるとお金を払って許してもらい、挙げ句の果てには異民族に都を占領されるは、皇帝を拉致され中国の北半分を奪われるはとやられ放題です。当然ですが、漢民族の誇りや威信は地に堕ちました。そして、そんな漢民族にさらに追い打ちをかける民族が現れます。モンゴル人です。
13世紀、フビライハンが南宋を征服した事で、中国全土はモンゴルの支配下に入りました。フビライハンとは、あのチンギスハンの孫ですね。
フビライハンは国名を、中国語で「天下泰平」を意味する元に変えました。これは、モンゴル人のおよそ60倍の人口を誇る漢民族の支持を得る事が目的でしたが、残念ながら失敗に終わります。モンゴル人達は、漢民族の支持を得ようとする一方で、漢民族の文化を軽視してしまったのです。
当時、モンゴル人は現在のイラクやロシアを支配し、それらの地域を通じて、当時中国文化より進んでいたヨーロッパやイスラムの文化に触れていました。そんな彼らにとって、中国文化は取るに足らない物であり、軽視してしまったのです。これに漢民族が怒りました。
余談ですが、日本でも有名な三国志演義水滸伝は、この時代に原型が作られたと言われています。モンゴル人に支配され、その文化すら否定された漢民族が、せめて小説の中だけでも、漢民族を活躍させようとしてこれらの小説を書いたわけです。妄想の世界で自分達を活躍させる漢民族。ここまでくると哀れですね。

今回はここまでにして、次回は落ちぶれた漢民族が、現在の反日思想に直結するある思想を導き出す様を御紹介したいと思います。
よろしければ、お付き合いください。